石油流通が既存業者の“縄張り”に強く縛られていた時代、その常識に風穴を開けた人物がいる。
後に、国内最大級の総合エネルギー企業となる出光興産を築いた“出光佐三”だ。
無名の一商人として出発し、海上販売や独自の取引で販路を切り拓いた歩みは、単なる成功譚ではない。
そこには、組織のあり方や人をどう扱うべきかという一貫した思想が通底している。
本記事では、佐三の生涯を軸に、数々の名言・格言、そして実際のエピソードを通して、その人物像に迫る。
海賊とよばれた男|出光佐三のおいたち

出光佐三(いでみつ さぞう)は1885年、藍問屋の父・出光藤六と、母・千代の次男として福岡県に生を受けた。
幼少期は、自伝でも「不眠症で精神衰弱」と振り返るような病弱体質で、夢遊病のような時期もあったとか。
さらに、高等小学校2年生のころ草木で目を突いて悪性の菌が入ったことで弱視となり、非常に目が悪かったことでも知られている。
しかし、学生時代の不自由さを活力に、物事を徹底的に考え抜く精神力や忍耐力を養った。
この事故・時期があったからこそ、佐三の基礎が出来上がったともいえるだろう。
目の問題で長期間の休学を挟みながらも、神戸への単身移住と神戸高等商業学校(現:神戸大学)への受験、そして学年3位という好成績で高等学校を卒業。
その後、石油販売業に従事し、1911年北九州・門司にて『出光商会』を創業する。
思想や理念の基礎、出光佐三の人生に深く関わった3名の人物

本章では、出光佐三の人生に深く関わった人物を3名紹介する。
各名とも、出光商会(現:出光興産)の経営哲学の基礎となり、また、同社のターニングポイントとなった人物だ。
これらの人物がいなければ、現在の出光興産は“無い”ともいえるだろう。
小学校時代の恩師、水島銕也と人間尊重主義
まずは、佐三の人格形成に大きな影響を与えた人物とされる、教師・水島銕也氏だ。

水島は1864年、豊前国中津(現・大分県中津市)で、中津藩士・水島均の長男として生まれる。東京商業学校を卒業後、藤田組や横浜正金銀行勤務を経て、1896年に東京高等商業学校教授となった。
黄金の奴隷になるな
水島は、人間尊重の思想を説き、身分や貧富に関係なく人を大切にする人物で、勉強の成績だけでなく誠実さや責任感を重視する教育方針だった。
佐三に対しても「正直であれ」と強く教えたとされている。
佐三は後年「事業は人なり(出光の社員を家族として扱う経営哲学)には、水島が原点にある」と語り、影響力の大きさを感じられるだろう。
佐三にマーケティング力を培わせた、内池廉吉
次に紹介するのも、同じく東京高等商業学校の教授で、佐三にマーケティング理論を教えた内池廉吉だ。
内池は、福島県福島市で醤油醸造業内池家に生まれる。1899年高等商業学校(現:一橋大学)専攻部卒業。商業教員養成所講師を経て、1902年に神戸高等商業学校(現:神戸大学)設立に伴って、教授に就任した。
内池は、商業の授業を担当しており、その際『生産者と消費者をつなぎ、モノを配給するのがこれから残る商人だ』と持論を展開。
投機に走らず、マーケティングと適正価格を重視する商業理念は、佐三の販路思想となる。
そして現在、出光興産が掲げる『大地域小売主義(広い地域を対象にしつつ、取引はあくまで小売・最終顧客に直接向き合う)』の元となった。
経営難の出光商会を支えた支援者、日田重太郎
次に紹介するのは、門司での石油販売事業を本格的に立ち上げるきっかけとなった支援者の1人、日田重太郎氏だ。


佐三との出会いは、当時、神戸高等商業学校に在学していた佐三を、自身の子の家庭教師として雇ったことがはじまり。
日田は、佐三の誠実さに感銘を受け、独立を志していた佐三に対し、京都の家を売却してまで資金を贈与したと伝えられる。
その際の条件は、以下の3つ。
- 従業員を家族のように扱うこと
- 信念を曲げないこと
- この援助を他言しないこと



3年で駄目なら5年、5年で駄目なら10年
当時、日田は6千円(現在の価格で約8000万円)を佐三に出資している。
その後、日田は1961年に出身地の淡路島で死去。葬儀は出光興産の社葬として営まれ、出光自身も参列した。
2011年には没後50年を記念して、生前の収集品展示などの顕彰行事も行われている。
出光佐三の伝説的な3つのエピソード
出光佐三にはさまざまなエピソードがあるが、その中でも最も有名なエピソードを3つに絞って紹介したい。
“海賊”と呼ばれることになったきっかけ
門司に店を構えたすぐのころ、出光商会は日本石油下関支店(現在のENEOS系前身企業)の機械油を扱う特約店として出発した。
しかし、当時は地域や顧客ごとに強い縄張り意識があり、中でも漁師の顧客は特定の油屋からしか燃料を買えなかったのだ。
新参者の佐三にとって、大きな顧客に手が出せないのは、かなり不利な環境である。
そこで、佐三が選んだのは、その慣習を打ち破り漁師たちに向けて燃料油(灯油)を“海上”で直接販売することだった。



陸の上では売りません、海の上なら問題ないでしょう
佐三の海上販売は、既存の縄張りを回避でき、漁師の「今ほしい」に応えられ、小口でも顧客を積み上げられる。
尚且つ、現金取引で会社の信頼度蓄積にも繋がった好策だった。
そして、この件が後に『海賊』と呼ばれるきっかけのエピソードとなる。
戦後GHQとの闘い、“タンク底にかえれ”で一致団結
敗戦直後、国内は深刻な燃料不足に直面。また、GHQの統制下で自由な販売活動ができず資産を失ってしまう。
しかし、佐三は約1000人いた社員の生活を守るため、ラジオ修理や醤油販売、農業、漁業など、さまざまな仕事に着手する。


畑違いの仕事をやりくりしていた中で、まわってきた仕事のひとつが誰もが嫌がる過酷な仕事、タンク底の残油を回収する仕事だった。


佐三は、GHQが指定した北海道から佐世保の旧海軍タンクの底油回収を実施。機械も使えず、人力・手作業で社員総出で任務にあたる。
タンク底にたまった有毒ガスの危険性はもちろん、皮膚がただれたりなどまさに命がけの仕事だった。
しかし、この姿を見たGHQ将校は涙を流し「日本人は戦争に負けたが、精神までは負けていない」と評価。
佐三に友好的なGHQ職員の協力を得て、再び石油販売業者としての認可を取得、どん底からの再生を果たした。
その後の出光興産では、問題に直面した際「タンク底にかえれ」を合言葉に日々奮闘を重ねている。
世界に激震、イランとの活路を見出した日章丸事件
日章丸事件とは、1953年に出光興産がイランから原油を直接輸入した出来事である。


戦後、イランの石油資源はイギリス資本の石油メジャーであるアングロ・イラニアン社の管理下に置かれていた。石油資源の利益が分配されない状況に不満を抱いたイランは、1951年、石油資源の国有化を宣言。
イギリスとの対立が深まり、ついにはイラン石油を積載したイタリア船がイギリス海軍に拿捕されるという事件まで起こる。
当時、日本はメジャーを介さない独自ルートで石油を輸入することが難しく、日本経済の発展を阻害する一因だと考えられていた。
そこで、イラン国民の困窮も含めた事態を重く受け止めた出光佐三は、直接イランと取引することを決意。
さまざまな交渉を行いつつ、1953年3月23日に日章丸を極秘裏に神戸港から出港させる。
行先を知っていたのは、出光佐三ほか船長を含めたわずか数人。
航路上の危険な個所を入念に調べ、イギリス海軍の包囲網をかいくぐり、無事にイランからホルムズ海峡を通って石油を日本に持ち帰ることに成功する。



出光の利益のために石油を輸入したのではない。横暴な国際石油カルテルの支配に対抗し、消費者に安い石油を提供するために輸入したのだ
日章丸の快挙は世界を大いに驚かせ、日本が産油国と直接取引をする先駆けとなった。
現代でも続く“出光”と“イラン”、ホルムズ海峡の友好


現在、米国・イスラエルによる攻撃への報復として、イランがホルムズ海峡の通航を制限中だ。
その中で2026年4月29日未明、出光の超大型原油タンカー「出光丸」が62日ぶりにホルムズ海峡を無事通過した。
駐日イラン大使館はSNSで日章丸事件に触れつつ、「1953年に行った歴史的な任務(日章丸事件)は、両国間の長きにわたる友情の証しであり、そのレガシーは今日においても極めて大きな意義を持ち続けています」と発言。
出光佐三が起こした日章丸事件だが、一企業一商人の信念が今もなお日本を助けてくれている。
まとめ


佐三の95年の歩みは、明治に息づいた気骨と、昭和に重んじられた人の尊厳が貫かれている。
彼が遺した本質的な3つのポイント「利益追求は本質ではない、真の狙いは人の幸福にある」「富に支配されるな」「自国への誇りを取り戻せ」は、今を生きる私たちに鋭く響く指針となるだろう。
参考にした書籍と、アマプラで見れる映画を紹介して終わります。
アマプラはこちら『海賊とよばれた男
当メディアでは、石油製品・エンジンオイルを扱う現場の視点から、カタログだけでは判断しにくいポイントや実務で役立つ知識を継続的に発信しています。ご質問がある方や記事に関してなどは、お問い合わせよりお気軽にご連絡ください。









